黄金糖とは
黄金糖の歴史
黄金糖の始まりは、1919(大正8)年。瀬戸口伊勢松が、砂糖と水飴だけでつくった金色の飴、"金銀糖"を宮崎県都城で売り出したことにさかのぼります。
その後1923(大正12)年、大阪府堺市において瀬戸口商店として創業した際、名前を"黄金糖"に改めました。形が現在のような四角柱になったのもこのとき。離型油を塗る必要のない独自の型を開発して、飴の表面をなめらかにするとともに、気泡が極力入らないこだわりの技法で、宝石のようにキラキラと輝く美しい飴が完成しました。
第二次世界大戦中には原料の砂糖が入手困難になり休業状態に追い込まれ、さらには空襲で工場と住居がすべて焼失。黄金糖の存続は窮地に立たされました。しかし、瓦礫が広がる街のなか、黄金糖の味を懐かしむ人々が次々と訪ねて来たことに胸を打たれた二代目・瀬戸口一郎は操業再開を決意。1946(昭和21)年、20坪ほどの土間を借り、戦後の混乱と食糧不足のなかで懸命に材料を集め、黄金糖づくりを再開したのです。
創業以来、香料・着色料をいっさい使わない製法を守り続けてきた黄金糖。大正、昭和、平成と時を経て、日本人の生活スタイルや嗜好はさまざまに変化しましたが、自然な味と香り、金色の輝きは、いつの時代も国民の皆さまに深く愛されてきました。今では、アメリカや台湾など海外にもたくさんのファンを持つグローバルな飴となっています。
その後1923(大正12)年、大阪府堺市において瀬戸口商店として創業した際、名前を"黄金糖"に改めました。形が現在のような四角柱になったのもこのとき。離型油を塗る必要のない独自の型を開発して、飴の表面をなめらかにするとともに、気泡が極力入らないこだわりの技法で、宝石のようにキラキラと輝く美しい飴が完成しました。
第二次世界大戦中には原料の砂糖が入手困難になり休業状態に追い込まれ、さらには空襲で工場と住居がすべて焼失。黄金糖の存続は窮地に立たされました。しかし、瓦礫が広がる街のなか、黄金糖の味を懐かしむ人々が次々と訪ねて来たことに胸を打たれた二代目・瀬戸口一郎は操業再開を決意。1946(昭和21)年、20坪ほどの土間を借り、戦後の混乱と食糧不足のなかで懸命に材料を集め、黄金糖づくりを再開したのです。
創業以来、香料・着色料をいっさい使わない製法を守り続けてきた黄金糖。大正、昭和、平成と時を経て、日本人の生活スタイルや嗜好はさまざまに変化しましたが、自然な味と香り、金色の輝きは、いつの時代も国民の皆さまに深く愛されてきました。今では、アメリカや台湾など海外にもたくさんのファンを持つグローバルな飴となっています。
1919(大正8)年 |
瀬戸口伊勢松が宮崎県都城で金銀糖の販売を開始 |
1923(大正12)年 |
金銀糖の名前を黄金糖に改称。六角瓶詰めで販売 |
1944(昭和19)年 |
砂糖の入手が困難になり休業 |
1946(昭和21)年 |
操業再開 |
1959(昭和34)年 |
明治神宮例大祭に、本年より毎年献菓 |
1960(昭和35)年 |
橿原神宮紀元祭に、本年より毎年献菓 |
1961(昭和36)年 |
第15回全国菓子大博覧会で名誉大賞受賞 |
1965(昭和40)年 |
工場を完全オートメーション化する |
1969(昭和44)年 |
第3回日本商工殿堂表彰大会で名誉総裁賞受賞 |
1970(昭和45)年 |
日本航空の機内サービスに採用される |
1973(昭和48)年 |
第18回全国菓子大博覧会で名誉総裁賞受賞 |
1989(平成元)年 |
第21回全国菓子大博覧会で名誉無鑑査賞受賞 黄金糖とラムネ味キャンディを合わせた、 業界初の2層キャンディ「ドッ・きんぐ」を発売 |
1994(平成6)年 |
「ドッ・きんぐ」を「ビタデスカル」に名称変更 |
2002(平成14)年 |
「ビタデスカル」を「ビタイン」に名称変更 |
黄金糖ができるまで